徴税請負人

ムガル帝国では、
徴税請負人がいた。

こういう人は、中央権力が弱まると歴史上に色々なところにあらわれるそうだ。
また、税金は、直接税(農民)から
間接税が中心になっていく。


徴税請負人は、商人がおこなうことが多かった。税をとり、そこから、手数料をもらう。



歴史的には、
1A)村の代表が税金を払う。
  足りないときは、村で借金
1B)外様の王様(別部族で支配権を
   与えられた人、徴税の義務あり)
  (ザミンダーリ村)

などから
 徴税請負人に代わっていった。

例えば、外様の王様が税金を集められくなったときに、徴税請負人が一定額代わりに集める。外様の王様が妨害しようとしたら、中央政府が徴税請負人を守る。外様の王様は、その後、ただの地主にようになる?

ウマイヤ朝では、官僚機構が発達していた。その官僚機構を維持するためのコストは農民からの税金で得た。農民からの税金を財源にあてるのは、珍しいそうだ。多くの場合は、海などからの流通から間接税をとる。上から、州、県、群、村からなっている。


税金は、はじめは、収量、面積を毎年調べて決定された。税率ははじめは、一定だったが、混乱がおきたため、村レベルによって細かく決定することにした。全国レベルで収量や面積をしらべることで(20年間くらい)、各地の税率が決定できるようになった。その後、税金が収量と関係なく固定されていく(簡素化)。これにより、
農民にもシステムが理解され、徴税の役人の不正の余地が少なくなった(ただし、5公5民以上)。はじめは、個別農民の直接支配(アクバルの思想)だったが(農民の収量を公権力が把握)、事務量の多さや、権力が多くなると、複雑な制度は不正の温床になった。その後、個人でなく村レベル、州レベルへ間接統治にいく。
村レベルになると、米が取れなくても一定量の税金を納めなくては、ならなくなっため、村レベルで借金して、税金を納めることもあった。それに、村の代表者には、村の管理を担うことによって、特権階級と下層農民の貧富の差は大きくなっていった。その後、徴税請負人があらわれる。これは、その地域から内訳はどうでもいいから、一定額、政府に払えば、例えば500円集めれば、手数料をもらえるという制度にこたえたための人、これが村レベルから、群レベル、州?までレベルへと広がっていく。この州から4000円とにかく集めれば、良いという感じ。

地代率表は、初期のイギリスインド支配
でもそのまま利用された。

中央政府の力が弱まると徴税請負人のような中間で利益を得る人がでてくる。また、そのような人が力をもってくる。




人とう税(異宗教者)は
宗教原理主義の王様で復活。
逆進課税で低所得者には
給料一か月分程度になった。

税金が「金」でとるためには、高度な流通システムが必要。近代近くまでは、山では物納だった。






昔のインド村落は小宇宙という発想は
古いらしい。

小宇宙とは、
農民、職人、バラモン、支配者
などのような人がいて、
システムが村だけ自立し外部に対している閉じているという考え方。
(インド村落共同体論)



実際には、商人や外部の農業労働者、職人、徴税請負人などがいて、外部と関係もある。

ただし、細胞のような組織であることが事実だと思う。